「ふるさと九重の作品展」
私は26才からニューヨークに40年以上にわたって住み、アーティストとして仕事して来ました。そして一貫してミニマリストとして仕事を続けて来ました。
ここでミニマリストとは究極の単純明快な表現こそがもっとも強いものであるとする姿勢を持つ創造する者達を言っています。この意味では、絵画以外の多くのジャンルや時代を越えた人々にもミニマリストは見られます。
17世紀オランダのフェルメールは室内の日常に厳しく限定した絵画でミニマリストであったし、江戸時代の芭蕉は余計な作為を重みとして排して最後に軽みという境地に到達したミニマリストでした。芭蕉に遅れる事ほぼ100年、日本の良寛とアメリカのソローは殆ど同時代の異国の人ですが,ともに生活そのものを清貧、素朴、簡素なミニマルなものに限定し、その結果として強い作品を残したミニマリストの創造者として生きました。ジャン・ジャック・ルソーは多くの人間的苦悩の生活を送りながらその根本において無垢な人間を追求した点でミニマリストでした。映画監督の小津安二郎も最も単純な日常生活の描写こそが最も強いものであるとして映画を作り続けた徹底したミニマリストでした。パリという俗物世界を逃れてタヒチに無垢の生活を望んで移住し、苦闘しながら無垢の作品を残したゴーギャンもその根本においてミニマリストでした。同じくパリを去り田園に人間の根本の姿を追求したミレーや、70才になってから睡蓮の静かな池の巨大な作品を10年間描き続けたモネは、アメリカのポロックなどのミニマルなアートへの引き金となりましたが、最後にはミニマリストとしての姿勢に収斂して行っています。
ミニマリストとは余計な思い入れや、作為、感情移入、時代思想、社会思想、などを狭く矮小で鈍重な弱いものとして排除しようとする姿勢を取り続ける者達の事を言います。
私の動く岩などの立体作品はあらゆる人間の奥底深く眠っている原初の心を明快に取り出そうとしたミニマリストの仕事であったし、日常の多面性を出来るだけ描き込もうとした絵画は1点、1点にこだわらず全てを、執着を断ち切って全部を拾い上げれば、どこにも執着の無い無、無垢に近くなるという根本の姿勢においてミニマリストでした。
ふるさと九重の作品は九重の自然を描いています。人工物は必ず余計な目的や意図を備えているものですが、自然を描くという事は、何の目的も持たず、作為なく存在し、何物にもとらわれない無垢の世界を描く事であり、これはミニマリストとして長年、最も望んで来た事です。
小さな緑色のアマガエルやカワラナデシコやジョロウグモ、ミヤマカワトンボ、牛や馬、クサフジの花達やそれに群がる蝶達、またその他沢山の九重の自然世界のもの達と一緒に草いきれの草原に溶け込む一瞬をよろこび、又、午前5時半の早朝の暗闇に白い朝霧の立ちのぼる阿蘇の山々やなだらかな丘に太陽がまっすぐな光線を真横から射し込み始める瞬間を描きながら、これからもこのすばらしい自然の場面を出来るだけ描いて行こうと思っています。
これから毎年ふるさと九重の作品を増やして行く予定でいます。
岡本陸郎
